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「鏡」

 仕事柄でしょうか、姿見に映る自分の姿を見る機会が多いように思います。例えば、出勤し善正寺本堂で御法事があれば、姿見の前で衣体を整えます。これと同様に、通夜葬儀があればその会場控室で姿見を見ながら着替えますし、霊園や墓地での法要時も同様です。姿見があると、人前に出る前に着崩れしていないか等を確認できるため、安心して人前に出ることができます。例外に姿見がない控室があります。その時は、衿元が乱れていないか、着物がめくれていないか等々、不安を抱えながら人前に出ることになります。

 七高僧のお一人、中国の善導大師は「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」と仰っています。お経に説かれた仏さまの教えは、鏡のようなものです。という意味ですが、私の先輩布教使は、この御言葉を「仏教という鏡に映し出された自分の姿とはどのような姿でしょうか。仏さまの教えによって映し出された自分は、自己中心の心から離れられず、煩悩に振り回されている愚かな自分に違いありません。しかし、自分の愚かさが知らされたということは、真実のあり方、自分の目指すべき方向が知らされたということでもあるのです。つまり、仏さまの教えを聞くということは、自らの愚かさが知らされると同時に、自らの目指すべき方向が知らされるということなのです。」と話して下さったことがあります。

 姿見の前で自分を見ているこの私は、自分の必要なところ、都合の良いところだけしか見ていませんし、外見しか見ていません。しかし、仏さまの教えは自分の内面である心を映し出してくれますし、自分の本当の姿に気づかせて下さいます。

 善導大師の御言葉には続きがあり、「しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す」とあります。仏さまの教えを、いくども読み、いくどもその心を尋ねること、すなはち、御聴聞を重ねることが大切で自分自身の鏡であると味わいます。 

合掌

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