他生の縁
「袖振り合うもタショウの縁」ということわざがあります。タショウを漢字にすると圧倒的に多い答えが「多少」です。実はこの「タショウ」の漢字、正しくは「他生」もしくは「多生」なのです。このことわざの意味は、道ばたですれ違う時に袖がちょっとでも触れあうほどのささいなことも深い宿縁があるのだ。だから、出会いのご縁を大事にしましょうという意味のことわざです。「多少の縁」では少しばかりの縁になります。深い宿縁なのですから全く意味が違ってしまいます。
「他生の縁」とは現世、つまり今生に対して前世からの縁。「多生の縁」とは何度も生まれ変わってきた中の縁という意味です。
人間ばかりでなく、全ての生命は無限の過去をもっています。今、眼の前にいる相手と自分が過去にどのような相互関係にあったかは知ることはできません。もしかしたら、それぞれのご先祖は遠い昔に何処かで知り合っていたかもしれません。
仏教の土台の思想である「縁起」とは、身の上で起こる一切のことは、直接的な原因と様々な間接的な条件の縁によって生ずるという考えです。
ですから、一期一会の出会いは因縁の計らいによる有り難いことなのです。
しかし、私たちはせっかくの縁でつながれている人間関係を、常に自分を中心において他の者の非を責め、自分を改めることもないままで台無しにすることがあります。「他生の縁」を粗末にすることでは、自分も救われず、共に憎しみ合い、苦しみを増すだけでありましょう。
人の出会いは偶然というものはなく、因縁があるから出会った、出会えたのだと考える方が良いのです。そんな視点で相手をみつめると、急に親しみを覚えますね。