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宗教つり革論

浅田正博先生の著書に「宗教つり革論」という記述がありました。

宗教は、電車やバスの「つり革」に似ているというのです。

 電車やバスが一定の方向に向かって、しかも一定の速度で走っている時には電車の中で立っていたとしても「つり革」は必要ありません。しかしその電車やバスが急にブレーキをかけたり、急カーブを切ったりした時には思わず「つり革」をつかみます。宗教はこの「つり革」に似ているという意味です。

 自分の人生が順調に運んでいる時は宗教を必要としない人が多いです。しかし、その人生に大きな障害が立ちはだかった時、要するに人生に急ブレーキがかかった時、あるいは急カーブを切った時には思わず「宗教」に救いを求めようとします。その時には、どの宗教の救いを求めればよいかなど考える余裕はありません。自分の手の届く範囲において宗教の「つり革」をつかむのです。

 しかし、問題はその「つり革」の強度です。弱い「つり革」であれば、それを持つと同時に「つり革」もろとも床にたたきつけられます。自分を十分に支えることができる「つり革」でなければ「つり革」の意味がありません。「宗教」も同じで、真実の教えでなければ自分を支えつくすことができないのです。

 人々が宗教に対して無関心であり続けられるのは、自分の人生が順風満帆に進んでいる時だからでしょう。しかし、その時にこそ、自分の手の届く範囲に自分をしっかりと支えてくれる「宗教的つり革」を用意しておく必要があると思うのです。人生には必ず急ブレーキをかけなければならない時があります。しかもその時はいつやってくるかわからないのです。

 こういった内容が書かれてありました。

 コロナ禍をきっかけに宗教的儀式の有り様に変化が見られるようになりました。省かれたり、簡略化されたりするケースが増えてきました。お墓に対する考え方も多様化し、様々なニーズに応えていく時代になっています。

 時代の流れに合わせ変わっていくもの「流行」。そして、時代を超えて変わらないもの「不易」。いつの時代もどの世界でも、この「不易」と「流行」の狭間で、人々はその選択に悩むのです。

 形が変わることはあっても、不易なるものは残るべきでしょう。形を変えず残すべきものもあるはずです。

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