知 識
「恩徳讃」の歌詞は《如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし》とあります。
ここで使われている師主知識の「知識」という言葉は、私たちが普段使っている「知識を得る」とか「知識がある」のように「知っていること」という意味の言葉ではありません。
仏教用語の「知識」とは、「先生」という意味を持つ言葉です。「善き方向に導いてくださる人」と言い換えてもいいかもしれません。
また、師主知識の「師主」とは、先生の中の先生で、阿弥陀仏の慈悲と智慧、つまり如来大悲を私たちに説いてくださったお釈迦様のことです。
師主知識の「知識」とは、そのお釈迦様の教えを丁寧に解きほぐして私たちに伝えてくださった「七人の高僧方」を意味します。具体的には、正信偈の中で讃えられている「龍樹菩薩」次に「天親菩薩」そして「曇鸞大師」、四人目が「道綽禅師」、五人目が「善導大師」、六人目が「源信和尚」、最後が「源空上人」つまり「法然上人」です。
これらの高僧方が、先生である「知識」なんですね。
私たちは、この知識である先生たちが命をかけてお釈迦様の教えを解き明かしてくれたことで、その教えを学ぶことができています。
けれども、我々は感謝すらせず、自分は仏教の知識があると傲慢になってしまいます。
ですから、親鸞聖人は、その傲慢になりがちな我々に、恩徳に骨をくだきても感謝すべきと和讃を読まれたのでしょう。
今年は、親鸞聖人御誕生から850年、そして立教開宗800年の節目の年でした。
親鸞聖人は、「どんなに孤独で苦しく悲しくてもあなたをそのまま受けとめ決して見放さない」という阿弥陀さまからの救いのメッセージを人々に説き示してくださいました。
今年も、親鸞聖人のそのお導きに感謝する報恩講が始まります。