諸法無我
先日、広島の街中に久しぶりに出かけました。思った以上に人が多かったことに少々驚きました。これらの人の多さは、単に人の数の多さなのではありません。男女や年齢の違い、また、会社員や学生、さらには暮らしている人か観光客か出張かという違い、そして目には映りませんが、出身地やたどってきた人生の違いを含め、誰一人として同じ人がいないという多さでもあるのです。
しかし、これだけ多くの人たちに共通していることが一つあります。それは、誰も皆、自分の幸せを望んでいるということです。私は幸せでありたいという共通点です。けれども、その私というものは、それぞれの「私」なのであって、全て異なる「私」なのです。
仏教の教えの土台の一つに「諸法無我」という教えがあります。『全ての存在は因縁によるもので、常に変化・消滅しているため、固定した実体はない』という思想です。
私たちは、普段「私」が確かに存在し、その「私」が感じるままに世界があると素朴に感じています。しかし、その世界は「私」中心の世界であり、それぞれ皆の自分中心の煩悩が成り立たせる世界です。それぞれの人が主人公である世界には何一つとして確かな世界はありません。
そして、その自分中心の世界で、私たちは、いつも「私」や「私のもの」にとらわれて生きています。その「私への執着」が苦の現実を形作っていると仏教では説かれています。このことを「我執」と言います。
この我執の迷いに対して、私という実体はないという「無我」が説かれているのです。
ちなみに、何も考えず一生懸命に目の前のことに集中していることを「無我夢中」といいますが、この言葉の「無我」は「諸法無我」とは異なる意味です。
無我夢中の「無我」は、勉強やスポーツ、あるいは楽しい趣味の世界に身を置いている時に我を忘れる「無我」ですから、どうか区別して理解してください。